中国新聞エッセー<No39 体力測定>

  • 2007.03.12 Monday
  • 12:05

 『これがオヤジの生きる道』 NO39


  体力測定

  熱も解決 気合で好結果



 (2007年3月11日付、中国新聞Dの頁掲載)



↓↓紙面はこんな雰囲気ね。
【画像:76173.jpg】



ひと月前のエッセーに、

「足がつった。情けない。私も歩行訓練をしなくっちゃ」と書いた。

新聞に公表した以上、やらずばなるまい。

自分にプレッシャーをかけて、スポーツジム通いを決意した。


通所リハビリへ行きだした妻の秀子の送迎で、

四時間もの待ち時間がある。

この時間を有効活用しようと考えた。

幸いなことに、リハビリ病院の中に、

付属のスポーツジムがある。

ここを利用しない手はない。

ということで、気合を入れて申し込みをした。

どれくらい体力が持つか不安なので、

とりあえず二回分の申し込みにしておいた。

(気合のわりにはせこい)


新しい室内シューズを購入したりして、

わくわくしながら迎えた初日。

若いインストラクターさんが、

「まずは体力測定から始めましょう」と言う。

「望むところだ。五十八歳の体力を見せてやるぞ」

と勇んだまでは良かったが…。


緊張しているせいか、

血圧、心拍数は普段より高めの数値がでた。

しかしまあ、許容範囲だ。

体脂肪率は五十代の標準値。

腹筋、敏しょう性も標準。

これは、毎朝ふとんの上で

ストレッチをしていることを考えるとやや不満だ。

柔軟性、平衡感覚はなんと最高レベル。

握力にいたっては、

右五十六?、左手五十二?で、二十代並みの数値だった。

どうだ、わしも捨てたものじゃないだろう。

少し鼻が高くなる。


ところが、最後の測定項目、

持久力すなわちエアロバイクでは、

ペダルをこいでいる途中で血圧が一気に上昇。

インストラクターさんから測定中止を命じられたのだ。

(オーマイガッ)


実は、前日から急に熱が出て、下腹が痛みだした。

おお、これは風邪だな。

悪化すると、ジムには行けなくなるぞ。

なんとしても一晩で治さなくっちゃ。

ということで、のどにタオルを巻き、湯たんぽを用意し、

夕食代わりに酒の熱燗を引っかけて、早々に寝てしまった。

夜中に何度か汗をふいたり、下着を取り換えたりしながら、

結局十二時間寝込んでいたのだった。


翌朝、なんとか熱も収まったが、食欲はなし。

そのふらふら状態での体力測定だったから、

「血圧急上昇」もいたし方なしだ。

しかし、そのわりには標準以上のいい数値でしょ。

(自慢かい)


     ●


【自戒の弁…いつまでも若いと思うなおやじたち】

(ブログ「Shiozyの介護生活」運営者=廿日市市)



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山田さんちこちらも応援よろしく

中国新聞エッセー<No36 私も歩行訓練?>

  • 2007.02.19 Monday
  • 11:48
 『これがオヤジの生きる道』 NO36


  私も歩行訓練?

  足がつり体の衰え実感



 (2007年2月18日付、中国新聞Dの頁掲載)



↓↓紙面はこんな雰囲気ね。
【画像:76165.jpg】



通所リハビリに妻を通わせて、

「筋肉隆々秀子」を夢見る塩爺であるが、

振り返って、わが身はどうだと自問すれば、

ほとほと心もとない体力ではある。


妻が元気なころ、二人して歩数計を着けたことがある。

通勤は車、社内では一度席に着けば、ずっと座りっぱなし。

歩くのはトイレに行く時くらい。

私の一日の歩数はなんと二千五百歩だった。

一方、妻の秀子は会社でも家でも、忙しく立ち働いている。

彼女の歩数は一万歩。

その数字の差を見て、がくぜんとした覚えがある。


先日、中国新聞社を訪問する機会があった。

弊社からゆっくり歩いて二十分くらいの距離。

「久しぶりに歩くか」ということで歩いてみた。

さわやかな高い空のもと、

深呼吸したくなるような心地よい気分。

たまには歩いてみるのもいいものだ。


ところが、その帰路、橋の半ばのゆるい上り坂で、

突然足がつってしまった。

苦痛で思わずうずくまる私。

横をオネーチャンが不思議そうな顔をして通り過ぎる。

恥ずかしいので、助けて、とも言えない。

なんとか自力で筋肉マッサージを行い、歩行再開できたが、

われながら情けない一幕だった。


小学校のころから剣道をやり、

中学では剣道部と相撲部を掛け持ちするくらい

スポーツに入れ込んでいた。

だから体力には自信を持っていた。

今でも毎朝、布団の上で腕立て伏せや腹筋運動をして

起きるようにしている。

「まだまだ若い者には負けないぞ」という自負はある。

それなのに、足がつった。ショックだった。


どうも老化は下から始まるようだ。

健康には歩くのが一番、とはよく言われることだが、

それを身をもって実感した。

よし、明日から歩くぞ、と言えればいいのだが、

意志薄弱根性なしの故、実行はおぼつかない。


待てよ、秀子が通所リハビリで身体を鍛えるのなら、

横で私も自転車マシンなどで下半身を鍛えればいいじゃないか。

一石二鳥のグッドアイデアだ。


先日、施設の方にこれを相談した。

「横で私もトレーニングしていいですか」と。

「付き添いの方はなるべく訓練室には立ち入らないでください」。

あっ、そう。あっさり拒否された。


ああ、歩かなければ。


     ●


【団塊のご同輩へ…一生懸命歩きましょうぜい】

(ブログ「Shiozyの介護生活」運営者=廿日市市)



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中国新聞エッセー<No35 通所リハビリ>

  • 2007.02.12 Monday
  • 16:58

 『これがオヤジの生きる道』 NO35


  通所リハビリ

  「体鍛えたい」妻が意欲



 (2007年2月11日付、中国新聞Dの頁掲載)



↓↓紙面はこんな雰囲気ね。
【画像:76159.jpg】



二月は、妻の秀子の介護認定の月である。

二年に一度、介護度の見直し認定が行われる。

右半身不随、失語症の秀子は現在「要介護1」だ。


昨年四月の介護保険制度改定で、

今後は介護予防に重点を置くという。

そう聞くと、なかなかいい制度じゃないかと思えるが、

現在「要介護1・2」の人は、認知症がない限り、

ほとんど「要支援」に「格下げ」されるのが実態だ。

要介護が要支援になるとどうなるのか。

妻の場合、

家事援助のヘルパーさんが来られなくなる可能性が大だ。


この一年、秀子の自立度は格段に進歩した。

料理さえ作れるようになった。

だが、ヘルパーさんの介助と見守りがあったればこそだ。

完ぺきに一人で料理ができるかというと、そうはいかない。

ヘルパーさんに週の半分でも来てもらえたら、と

願わざるをえない。


そんな私のヤキモキを知ってか、知らずか、

秀子さん突然、「通所リハビリ」に行きたいと言い出した。

これまで家に閉じこもり状態だったので、

デイケアにでも行ってみたらと何度も勧めてみた。

むりやり見学に連れて行ったこともある。

しかし、かたくなにイヤだという。

お年寄りの中に入ると、

自分までお年寄りになったみたいでイヤだという。


それが急に心変わりしたのだ。

年末に立てた今年の抱負

「海外旅行に連れて行こう」が効いたのか。

心変わりの原因はわからねど、ともかく身体を鍛えたいらしい。

「通所リハビリってどういう所かわかる?」と聞くと、

自転車こぎのまねをする。

秀子の頭の中では、

通所リハビリすなわちスポーツジムと思っているふしがある。

あえて否定しないでいる。


通常、お年寄りが通うデイケアは、

朝お迎えが来て、お遊戯や食事、入浴で一日を過ごし、

夕方送り届けるパターンだが、

秀子の場合はスポーツジムに通うスタイルなので、

朝夕の送迎には適さない。

こりゃどうも、会社を休んで私が送迎ということになりそうだ。


そろそろ引退することを考えないといけない時期でもあるし、

「毎日が日曜日」への移行期間として

「週休三日制」導入を考えている。

一年後の秀子の筋肉隆々たる姿を夢想しながら。


     ●


【塩爺のイヤミ…介護予防というけれど、一人暮らしの人はどうするんだ】

(ブログ「Shiozyの介護生活」運営者=廿日市市)



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中国新聞エッセー<No34 金銭感覚>

  • 2007.02.05 Monday
  • 12:06


 『これがオヤジの生きる道』 NO34


  金銭感覚

  細かい勘定 当たり前に



 (2007年2月4日付、中国新聞Dの頁掲載)



↓↓紙面はこんな雰囲気ね。
【画像:76155.jpg】



本日はお日柄もよく、「立春」ですね。

旧暦でいえば、「元日」みたいな日。

世間さまでは年の初めのおめでたい日ですが、

わが家では「お父さまの誕生日」。

家族そろってお祝いしてくれるでしょう(そのはず)。


昨年は、娘が誕生祝いに「小銭入れ」を

プレゼントしてくれました。

カンガルー皮のちょっと高級そうな小銭入れです。

主夫になり、スーパーでの食材購入が大事な仕事の

一つになりましたから、小銭が必需品です。

それまで、ポケットの中でジャラジャラいわせていたのが、

これで解消いたしました。

「しっかり主夫をやれよ」という娘の励ましでありました。


小銭といえば、妻の秀子が倒れる以前は、

お金を持ち歩く習慣が私にはなかった。

財布は持っていても、いくら入っているのか、

まったく知らないし、関心もなかった。

会社も家庭も、お金はすべて秀子の管理。

その秀子がいつも横にいるので、

必要な時は必要なだけもらう、というスタイルだった。


会社の資金繰りも秀子任せ。

銀行との折衝も秀子任せ。

一円単位のお金をぴたりと合わすのは秀子経理部長の仕事。

だから私は「万単位」の大きな金の流れだけ見ておけば良かった。

必然的に、「小銭」という金銭感覚がなかったのだった。


そこへある日突然、秀子が倒れる。

それは給料日の三日前という日だったから、

まずお金の問題でパニックになった。

銀行の通帳がどこにあるのかさえわからない。

とうとう、その月の給与は遅配となってしまった。


その日から、お金の動きと格闘する日々が始まった。

何が振り込みで、何が引き落としなのか皆目わからない。

「引き落としができませんよ」と連絡が入れば、

現金を持って走る。

走って行ったら、それは会社の引き落としではなく、

家のほうだったりして、何が何やらわからない。

そんな日々だった。

会社と家庭のお金の全容が把握できたのは、

それから一年以上もたってからだった。


そんな私が、

今では卵ワンパック百九十八円が高いと思えるようになり、

百二十八円の特売日に買い物するようになったのだから、

われながら「いい主夫」になったものだと自画自賛する。


     ●


【秀子のイヤミ…酒とたばこをやめれば、高い卵も食べられるわ】

(ブログ「Shiozyの介護生活」運営者=廿日市市)



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中国新聞エッセー<No33 香港旅行>

  • 2007.01.29 Monday
  • 12:15
 『これがオヤジの生きる道』 NO33


  香港旅行

  雑踏で体力不足を痛感



 (2007年1月28日付、中国新聞Dの頁掲載)



↓↓紙面はこんな雰囲気ね。
【画像:76152.jpg】



大みそかのエッセーで、今年の抱負を語った。

「妻の秀子の旅行を実現してやりたい」と。

実は、介護生活三年目の春に一度、

海外旅行に挑戦したことがあるのです。

二泊三日の短い香港旅行。無謀でした。


介護生活二年目までの秀子は、

家に閉じこもったまま、毎日泣いて暮らしていた。

それを心配した娘が、

「お母さんと二人で海外旅行に行こう」

と誘いをかけた。

秀子が小躍りして喜んだのは、言うまでもない。


しかし、冷静に考えてみると、

車いすでの移動を娘一人で介助するというのは無理がある。

階段などは、二人がかりで持ち上げないといけない

ケースがあるからだ。

ということで、私もついて行くことになり、

家族三人での旅行とあいなった。


広島空港発着の少人数格安パック旅行だったが、

団体行動をすると、同行の方々に迷惑を掛ける。

そこで、われわれ家族だけは別行動、

フリープランにしてもらった。

車いすも、持参すると大変なので、

空港やホテルに予約を入れた。

結構、事前準備に手が取られたのだった。


それにしても、空港の対応は見事だった。

広島空港、香港の啓徳空港ともに、

係りの人がずっと付き添ってくれて

搭乗までお世話してくれた。

なかでも、乗り継ぎの台北空港(台湾)では、

入出国の手続きもVIP待遇で、

障害者最優先の扱いに感動したのだった。


海外旅行も意外と快適かも、

と思ったのがまちがいだった。

ホテルに着いて旅装を解くいとまもなく、

繁華街へ観光に出かけた。

人ごみの中を車いすで動くのはとても大変だ。

途中で秀子が「歩く」と言い出した。


つえをついて、そろりそろりと歩く。

数百?も歩かないうちに、肩が痛いと言い出した。

動かない右腕は、だらりと垂れ下がったまま歩行する。

腕の重量で右肩は「亜脱臼」状態である。

その「抜けた肩」が痛いという。

あわてて洋品店を探し、大きなスカーフを購入。

それで三角きんをつくり、右腕をつるすという応急処置をとった。


このトラブルがあって、

その日も翌日も、ずっとホテル暮らしというありさま。

香港の夜景はかろうじて観光できたが、

ほとんど何も見てない海外旅行でありました。

これを教訓に、

次の海外旅行はしっかり身体を鍛えて実行しないとね。


     ●


【秀子のやる気…今年は通所リハビリに通って身体を鍛えるわ】

(ブログ「Shiozyの介護生活」運営者=廿日市市)




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中国新聞エッセー<No31 父のこと>

  • 2007.01.15 Monday
  • 11:49

 『これがオヤジの生きる道』 NO31


  父のこと

  温厚でまじめ 安らかに



 (2007年1月14日付、中国新聞Dの頁掲載)



↓↓紙面はこんな雰囲気ね。
【画像:76143.jpg】




「温光院静心居士」。

七十七歳で亡くなった父の戒名だ。

その名の通り、温厚でまじめな性格の人だった。

父にしかられた記憶は一度もない。


私が五十歳を過ぎたころから、母が急に弱りだした。

熱が出たり、吐き気がしたり、

小さな病気が出てくるようになった。

一度、ちゃんと検査を受けたほうがいいということになり、

精密検査をすると、案の定、胃がんがかなり進んでいた。


胃を摘出する以外に方法がなく、胃の全摘出となった。

手術後、見舞いに行った私の目には、

看病に当たる父の姿がえらく弱々しく映った。

病室に泊まり込んだりして大変だったんだろうな。

その時は、それくらいのことしか思わなかった。


それから数カ月後、「父入院」の知らせが入った。

直腸がんで至急手術の必要あり。

手術の立会人が必要だが、

母が自宅療養のため、立会人がいないとのこと。

取るものもとりあえず帰省したが、

ドクターの説明は「開腹手術はしてみるものの、

もう手遅れかもしれません」だった。


手術室に入って三十分もしないうちに出てきたドクターの言葉は、

悪い予感通り

「開けてみましたが、そのまま閉じました。

もって一カ月でしょう」。

「ここまで悪くなっているということは、

ずっと以前から自覚症状があったはずなんですが、

誰も気付かなかったんでしょうかね」

母の看病中、自覚症状があったにもかかわらず、

母を心配させてはいけないと我慢していたのだろう。


結局、父には手術が成功したと、うその報告をし、

残された時間を静かに過ごしてもらうしか方法がなかった。

術後の入院生活ではすぐに歩きだすなどして

意外に元気になるかも、との期待を持たせてくれたが、

二週間もすると、見るみるうちにやせ衰えていった。


広島に戻っていた私に

「危篤」の知らせが入ったのは、術後二十日余りのこと。

駆け付けた時は、もう意識がなかった。

その晩、母に代わって病室に泊まり込んだ私の目の前で、

父は逝った。明け方の四時だった。

大正・昭和・平成と三つの時代を生き、

戦争を体験し、当時の平均寿命まで生きた父。

果たして「充実した人生」だったのだろうか。

「温光院静心居士」の贈り名通り

悔いのない「静かな心」でいてくれたらと思う。


     ●


【塩爺の苦笑…父のような穏やかな人生は、私には望むべくもない】

(ブログ「Shiozyの介護生活」運営者=廿日市市)




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中国新聞エッセー<No30 母への年賀>

  • 2007.01.08 Monday
  • 15:46


 『これがオヤジの生きる道』 NO30


  母への年賀

  愚息より感謝を込めて



 (2007年1月7日付、中国新聞Dの頁掲載)



↓↓紙面はこんな雰囲気ね。
【画像:76137.jpg】



謹賀新年、母上さま。

また新しい年を迎えることができ、慶賀の至りです。

年末年始も帰省せず、賀状も出さない愚息をお許しください。

胃がんによる胃の全摘手術をして体重が半分になった体には、

寒さは人一倍こたえるのではないですか。

幸いにも術後五年が経過し、転移の兆候も見られず、

なんとか現状維持できている様子に安堵しております。


親の介護より先に、妻の介護に直面した私は、

心の準備もないまま手さぐりの介護生活に入りましたが、

介護歴四年を経過した今、

おかげさまで曲がりなりにも主夫を務めております。

料理など作ったことがない私が主夫をするというのは、

母上からみれば、信じられないことでしょう。


妻の秀子も懸命なリハビリの結果、しゃべるのも上手になり、

簡単な料理なら自分で作れるようになりました。

日常生活のことならほぼ一人で出来ますので、

私の負担は格段に軽くなっております。

不肖の息子はご心配には及びません。

御身のことだけ専一に願います。


長男なのに、大学入学以来ずっと家を出たままの私は、

親孝行らしきことが何一つできていません。

親孝行どころか、母上と私は似たもの同士の故か、

会えばけんかばかりというありさまでした。


忘れもしない十年ほど前の大みそか。

久しぶりに帰省した私は、案の定、

ささいなことで口げんか。

売り言葉に買い言葉で、収まりがつかなくなり、

とうとう最終の夜行列車で広島に帰ったことがありました。

それ以来、実家への帰省ができないままとなってしまいました。

大変もうしわけなく、反省しております。


秀子の介護をするようになって、

私も少し人間が丸くなりました。

人の痛みやつらさを理解できるようにもなりました。

親が子を思う気持ちに、思いをはせるだけの

「やさしさ」も身についたようです。

浪人、停学、留年、休学、中退と

あらゆる挫折を繰り返した学生時代。

ひと言も怒ることなく私を受け止めてくれたご恩は

決して忘れません。

この年になってやっと「親に感謝する」

という気持ちになれました。

今度お会いする時は、けんかせずに過ごせることでしょう。

今年はきっと帰省いたします。

秀子と一緒に。

寒い折柄、どうぞご自愛ください。


     ●


【塩爺のざんげ…けんかする気力がなくなりつつある母を見るのはつらい】

(ブログ「Shiozyの介護生活」運営者=廿日市市)




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中国新聞エッセー<No27 死屍累々>

  • 2006.12.18 Monday
  • 11:13
 『これがオヤジの生きる道』 NO27


  死屍累々

  企業の繁栄の裏には…



 (2006年12月17日付、中国新聞Dの頁掲載)



↓↓紙面はこんな雰囲気ね。
【画像:76120.jpg】




この連載の「職業遍歴」に登場した

ストライキ首謀者の若き二人。

わが社設立の原因となったいわば創始者の二人だが、

実はもうこの世にいない。

二人とも「天国」に召されてしまった。

「鎮魂」の意味で、ぜひ書き残しておきたい。


フリーランサーの集合体として出発したわが社であったが、

資金も何もない成り行きの出発だったため、

当初は、友人のアパートの台所が事務所だった。

当然のごとく仕事はない。

失業保険でなんとか食いつなぐ日々。

暇でしょうがない。

昼間は近くの公園で野球の毎日だ。

そのうち、同業者たちの草野球チームに誘われ、

毎日曜日の草野球が一番の生きがい

みたいになるありさまだった。


やがて、われわれの存在が知られていき、

少しずつ仕事が舞い込むようになった。

だがしかし、ほとんどが徹夜仕事ばかりだった。

要するに、納期に間に合わない仕事が

下請けに回ってくるのだ。

それでも、私たちにとってはありがたかった。

若かったから、二晩徹夜して翌朝から草野球二試合

といった、むちゃがやれたのだった。


こんな苦労をともに過ごした二人はもういない。

首謀者Nは当時二十二歳。

会社の成長とともに、やっと楽をさせてやれるかなと

思い始めた十数年後、糖尿病を患った。

食事療法や運動療法などいろいろ試みたが、

もともとの体質だったのか、みるみるやせ衰え、

あっけなく逝った。

苦しかった時代の思い出しか残らなかったろうと思うと、

残念でならない。享年三十六歳。


もう一人の首謀者Kは、

創業後数年で独立し、広島を離れた。

しばらく便りがなかったが、

数年後また広島に舞い戻り、

夫婦で印刷関連の制作業を始めた。

高度成長期からバブルな時代はそれなりに盛業だった。

やがてバブルがはじけるのと時を同じくして、

われわれの業界にコンピューター化の波が押し寄せた。

それまでの手仕事、職人仕事が時代に通用しなくなった。

廃業、転職の相談にやってきたりしたが、

どれもうまくいかず、

とうとう自らの命を絶ってしまった。享年四十四歳。


企業の繁栄の裏に、

こうした「死屍累々」の歴史がある。

それを思うと、自責の念にかられてしまい、

やがて私自身の「自殺未遂」へとつながって

いってしまったのだった。「合掌」


     ●


【塩爺の怒り…光があれば影がある。この自明さに腹が立つ】

(ブログ「Shiozyの介護生活」運営者=廿日市市)




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中国新聞エッセー<No25 職業遍歴:下>

  • 2006.12.04 Monday
  • 12:32
 『これがオヤジの生きる道』 NO25


  職業遍歴:下

  さらばボーナスの束よ



 (2006年12月3日付、中国新聞Dの頁掲載)



↓↓紙面はこんな雰囲気ね。
【画像:76115.jpg】



ストライキの若い首謀者に罵声を浴びせられた私は、

それでも、一生懸命に説得を試みたのだが、

みな若かったせいか、

「自分たちの要求が入れられないなら、全員会社を辞める」

と言い張る。

何度もなんども説得したが、結局、物別れに終わった。

十数人が会社を去るという。


「お前は信用できない」と言われた私は、

「ところで、お前はどう生きるんだ」と

彼らから問われてるようで、つらかった。

「よし、一緒に辞めよう」。

そう決断するのに時間はかからなかった。

「立つ」ようなボーナスが夢と消えた瞬間だった。

以来、一度もボーナスなるものを拝んだことはない。


辞めると会社に告げたとき、

社長はもちろん、出版社の社長や取引銀行の人まで

登場して引き留められた。

銀行の人は深夜、自宅まで押しかけてくる熱心さだった。

(この熱意に打たれて、弊社は創業以来ずっと、

この銀行をメーンにしている)


しかし、私も若かったから一度決めたら猪突猛進、

頑固に自我を貫き通した。


さて、一緒に辞めた十数人の若者たちは、

辞めたものの、どう事態を収拾していいか混乱していた。

なかには、数人の身体障害者たちがいて、

とりわけ、彼らや彼女たちの身の振り方が問題だった。

ある者はこの際、結婚して家庭に入る、という人もいたが、

大半が次の就職先を見つけなければならなかった。

方々へ手分けして就職先を探し、

あらかためどがついたのが数カ月後だった。


そして、最後まで就職先が決まらなかったのが、

ストライキを主導した若い男二人だった。

さて、二人をどうしたものか。

会社という組織に幻滅しているので、

積極的に就職したいとは思っていないみたいだ。

ふう、これは困ったぞ。

実は私は、この二人が就職したら、

実家のある九州へ帰るつもりでいた。

しかし、就職が決まらない。

「ええい、ままよ」とばかり決めたのが、個人創業。

今で言う「SOHO(スモールオフィス・ホームオフィス)」だった。


彼ら二人と、以前独立していた子たちを呼び集めて、

「フリーランス創美」という任意団体を作ったのだ。

これが、わが社の前身だが、

その当時の様子は失業者の集まりというのが実態だった。

「働く人の側に立つ」と決めた私が、

よもや社長になるとは想像もしてなかった

塩爺二十九歳の冬だった。


     ●


【振り返れば教訓…人生は人との関係性で

 生かされているのかもしれませんね】

(ブログ「Shiozyの介護生活」運営者=廿日市市)




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↓↓私も「立つ」ようなボーナスが欲しい、と思ったら、カチッとね。

中国新聞エッセー<No25 職業遍歴:下>

  • 2006.12.04 Monday
  • 12:32
 『これがオヤジの生きる道』 NO25


  職業遍歴:下

  さらばボーナスの束よ



 (2006年12月3日付、中国新聞Dの頁掲載)



↓↓紙面はこんな雰囲気ね。
【画像:76115.jpg】



ストライキの若い首謀者に罵声を浴びせられた私は、

それでも、一生懸命に説得を試みたのだが、

みな若かったせいか、

「自分たちの要求が入れられないなら、全員会社を辞める」

と言い張る。

何度もなんども説得したが、結局、物別れに終わった。

十数人が会社を去るという。


「お前は信用できない」と言われた私は、

「ところで、お前はどう生きるんだ」と

彼らから問われてるようで、つらかった。

「よし、一緒に辞めよう」。

そう決断するのに時間はかからなかった。

「立つ」ようなボーナスが夢と消えた瞬間だった。

以来、一度もボーナスなるものを拝んだことはない。


辞めると会社に告げたとき、

社長はもちろん、出版社の社長や取引銀行の人まで

登場して引き留められた。

銀行の人は深夜、自宅まで押しかけてくる熱心さだった。

(この熱意に打たれて、弊社は創業以来ずっと、

この銀行をメーンにしている)


しかし、私も若かったから一度決めたら猪突猛進、

頑固に自我を貫き通した。


さて、一緒に辞めた十数人の若者たちは、

辞めたものの、どう事態を収拾していいか混乱していた。

なかには、数人の身体障害者たちがいて、

とりわけ、彼らや彼女たちの身の振り方が問題だった。

ある者はこの際、結婚して家庭に入る、という人もいたが、

大半が次の就職先を見つけなければならなかった。

方々へ手分けして就職先を探し、

あらかためどがついたのが数カ月後だった。


そして、最後まで就職先が決まらなかったのが、

ストライキを主導した若い男二人だった。

さて、二人をどうしたものか。

会社という組織に幻滅しているので、

積極的に就職したいとは思っていないみたいだ。

ふう、これは困ったぞ。

実は私は、この二人が就職したら、

実家のある九州へ帰るつもりでいた。

しかし、就職が決まらない。

「ええい、ままよ」とばかり決めたのが、個人創業。

今で言う「SOHO(スモールオフィス・ホームオフィス)」だった。


彼ら二人と、以前独立していた子たちを呼び集めて、

「フリーランス創美」という任意団体を作ったのだ。

これが、わが社の前身だが、

その当時の様子は失業者の集まりというのが実態だった。

「働く人の側に立つ」と決めた私が、

よもや社長になるとは想像もしてなかった

塩爺二十九歳の冬だった。


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【振り返れば教訓…人生は人との関係性で

 生かされているのかもしれませんね】

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shiozyの愛飲焼酎はこれ。

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